fbpx
MENU

スポットマップ

歴史文化が息づく町・小諸市で、小諸城址懐古園、北国街道小諸宿を巡る

小諸市は町中での歴史文化観光と自然観光を楽しめる地域です。「浅間山麓サイクリングツアーマップ」でのコースを走りながら少し足を延ばし、散策することで見つけられる魅力や学びのある「まちなか観光」を、ぜひおすすめします。今回はそんな小諸市が誇る歴史や文化について、「小諸城址懐古園」と「北国街道小諸宿」にスポットを当ててご紹介します。

「小諸城址懐古園」で小諸の歴史文化を学ぶ

「小諸城址懐古園」は、小諸市観光の拠点となっており、小諸の歴史と文化を学ぶことができます。「徴古館」では小諸城の歴史が学べ、当時の武器や甲冑、古文書などが展示されており、園内を散策しているとその歴史の足跡に出会うことができます。

また、藤村詩碑、高浜虚子句碑、若山牧水歌碑と文化人の記念碑を見ることができるほか、「藤村記念館」「小山敬三美術館」「小諸義塾記念館」では小諸にゆかりのある文化人について学ぶことができます。

満開の桜

「日本さくら100選」の地でもあり、春の桜のシーズンや秋の紅葉シーズンには古城の風情と絶景を楽しむ人々で賑わいます。動物園や遊園地もあるので、子どもから年配の方まで、様々な目的で楽しむ事ができる名所です。

紅葉

難攻不落の城、小諸城のおこり~江戸時代初期まで~

日本100名城のひとつに数えられている小諸城は、千曲川に臨む断崖絶壁と谷が深く切れ込んだ田切地形を巧みに利用して構築された、要害堅固な城として有名で、日本で唯一、城郭が城下町よりも低い位置にある穴城として知られ、大変珍しく価値のあるお城です。

小諸は「小室(こむろ)」の地名が変化したものといわれ、この地に入った小室太郎光兼が「宇頭坂館」を構えたといいます。小諸城の始まりは長享元年(1487年)、大井光忠が築いた「鍋蓋城」であるといわれています。それをさらに補強していく形で乙女城(現小諸城二の丸)などの支城が築かれていきました。戦国時代になり、甲斐の武田信玄が佐久郡を攻め落とし小諸を支配すると、鍋蓋城や乙女城を取り込んで整備拡張していったといわれています。

武田氏が滅んだ後、小諸城は佐久郡・小県郡を治める重要な地点であったことから、諸大名の間で争奪戦が展開されます。やがて豊臣政権下で秀吉の家臣であった仙石秀久が小諸に入ると、秀久によって城の大改修と城下町の整備が行われ、現在の小諸の町の原型ができました。これにより小諸宿をはじめ周辺地域が大きく発展し、江戸中期以降には東信一の経済圏となるまでに成長していきます。

牧野家が治めた江戸時代中期~明治維新まで

紅葉_02

仙石家が上田城主に転封した後、小諸城は度々城主が変わりましたが、1702年(元禄15年)牧野康重が小諸城主に着任、以降は10代170年間にわたり牧野家が幕末・明治維新まで小諸を統治しました。牧野家が統治した江戸中期以降は小諸宿がもっとも栄え、藩校「明倫堂」の開校など学問の推奨にも力を入れた時代でした。また、浅間山の噴火や「戌の満水」と呼ばれる大水害、天明の大飢饉など度重なる自然災害にも苦しめられた時代でもあります。その後、小諸城は明治の廃藩置県により役割を終え「懐古園」として整備され、現在に至ります。

小諸城址の見どころ紹介

【大手門】小諸城の正門「大手門」は、小諸駅の北側に位置し、停車場ガーデンや大手門公園からアクセスできます。江戸初期の慶長年間に、仙石秀久によって創建され、現在は国の重要文化財に指定されています。当時、瓦葺造りの門は珍しく「瓦門」と呼ばれており、華美な装飾はせず、質実剛健な造りが特徴です。

大手門

【三の門】小諸駅の南側にある懐古園の入り口「三の門」は、江戸初期の1615年(元和元年)、秀久の子・忠政によって建設され、同じく国の重要文化財に指定されています。1742年(寛保2年)この地域に甚大な被害をもたらした水害「戌の満水」で流されてしまったのですが、1765〜1766年(明和2〜3年)に再建。門の両側の塀には、外敵に備えるために矢挟間や銃砲狭間があるのが今でも確認できます。また、正面の「懐古園」の額の金文字は、徳川家達(いえさと/15代将軍慶喜の後の16代当主)の直筆によるものです。

三の門

【二の丸跡】

三の門を入ってすぐ、右手の小高い曲輪が二の丸跡になります。第二次上田合戦ではここに徳川秀忠が布陣したと伝わります。小諸城二の丸に布陣した秀忠でしたが、真田氏攻略に時間を要したことにより、父・家康の待つ関ケ原の戦いに遅参してしまいます。家康に叱責される秀忠の弁明に家臣であった仙石秀久が身を挺して奔走したことから、秀忠は将軍になると秀久を重用するようになります。秀久が秀忠から信頼を得たことにより、その子孫は上田を経て出石(兵庫県豊岡市)にて幕末まで栄えました。

秀忠は大手門から入城し三の門脇の石に腰かけたとされ、その石が現存する「徳川秀忠憩石(いこいいし)」と伝わります。現在は三の門前の花見櫓跡で見ることができます。

 

【本丸跡】

紅葉谷にかかる黒門橋の先に「本丸跡」があります。天守台には金箔瓦を葺いた三層の望楼型天守閣があったと伝わっています。1626年(寛永3年)の落雷により焼失し、今は天守台跡と野面積みの石垣のみが残っています。小諸城を公園とし、本丸跡に歴代藩主の霊を祀り「懐古園」としました。

懐古園内の藤村記念館と小山敬三美術館

懐古園内にある美術館や記念館もおすすめです。文豪・島崎藤村は小諸義塾の教師として小諸へ赴任し、約6年間の生活の中で詩人から小説家へと転身していきました。「藤村記念館」では、藤村が愛用した品や原稿を見ることができます。「小山敬三美術館」は、小諸出身の洋画家・小山敬三の代表作品“浅間山”シリーズが展示されています。建物は文化勲章を受章した村野藤吾氏の設計によるもので、建物、絵画、眺望の集合美をかなえた美術館です。

小諸城下で栄えた旧北国街道を巡る

旧北国街道

小諸宿は、小諸城の城下町であると共に北国街道の宿場町であり、多くの旅籠や商家などが軒を連ねていました。日本海の要港である直江津湊付近から中山道追分宿までの道のりである「北国街道」は、佐渡金山で採れた金を江戸まで運ぶ経路として幕府から重要視されており、五街道に次ぐ格式があった街道でした。また、江戸への参勤交代の大名行列や善光寺詣での旅人が行き交い、江戸中期には東信濃でもっとも活気にあふれ賑わった町でした。

街中_風景

小諸宿にあたる小諸市本町、荒町、与良町には、今でも江戸時代の町屋建築や白壁・土蔵の建物が沢山残されています。特に、宿場町の要であった問屋場である国の重要文化財の「旧小諸本陣」や「脇本陣・粂屋」、現在は大手門公園に移築され歴史資料館になっている本陣御殿(小諸宿本陣主屋は観光スポットとしてとても人気です     

また、江戸時代の創業から今も変わらず営業を続けている老舗店や、当時の建物を活かしてお洒落に生まれ変わったお店など、かつての雰囲気を味わいながら巡ることができます。

粂屋_外観

さらに前出の「脇本陣・粂屋」は、築150年を超える建物の伝統と格式をそのままに令和元年にリノベーションされ、「脇本陣の宿 粂屋」 として生まれ変わり、当時の旅籠の風情を楽しめると大変話題になっています。

館内の「茶屋くめや」では、こもろ観光ガイド協会がスタッフとしてお茶を出してくれながら、小諸の歴史文化やまちなか観光について案内してくれますよ。 

人力車

小諸市の歴史文化は、いかがでしたか?江戸時代の 町並みや、小諸城はじめこの地で生きた人々の人間模様を想像してみると、ワクワクしてしまいますね。

坂の多い小諸のまちなか観光での移動手段として、Eバイクや電動アシスト付き自転車がおすすめ。これらは小諸駅を出て右手すぐの小諸観光案内所で借りることができます。

人力車での観光も大変人気で、様々なコースを選べる他、ハイカラ衣装時代体験などの楽しい企画も用意されています。

現在小諸市では、様々な取り組みでこの歴史文化を活かしたまちづくりをしています。歴史文化を大切に引き継ぎながら、次世代に向けた発信をしていく小諸市の街づくり、これからも小諸市の発展が楽しみですね!

 

 

今回紹介した場所

New Topics